元キャリア官僚が胃を全摘出後に選んだ道。「申請書はラブレター」夫婦で掴んだ“無限の可能性”を守るIKIGAI(白﨑国際特許事務所)
かつて、日本の経済を動かす「霞が関」の最前線で、国を背負い命懸けで働いていた男がいました。通商産業省(現・経済産業省)の官僚として、日本の産業を守り導く激務の日々。
そんな彼が40代半ばで、安定した地位を捨てて独立を決意します。資金も後ろ盾もない中、頼りは妻一人。幼い娘さんを事務所の机で寝かせながら、ゼロから再スタートを切った夫婦の物語…
「人間の頭脳は無限だ」──そう語る彼の目は、一本の釘の発明にも熱い好奇心と、人間への深い信頼を宿しています。これは、激流の中にいた夫と、「なるようになる」と静かに支え続けた妻が、信頼と愛、そして人生の「生きがい(IKIGAI)」を取り戻すまでの、感動のストーリーです。

白﨑国際特許事務所 所長 白﨑 真二さん / 白﨑 則子さん
1. 信念を貫いた官僚時代:「少し荒っぽくても、卑怯なことだけはしない」
――白﨑先生は、長く特許庁や通産省(現・経産省)で活躍されました。その仕事の原点はどこにあったのでしょうか?
白﨑真二さん(以下、真二さん):若い頃から大切にしている言葉があります。元国鉄総裁の石田禮助さんの「粗(そ)にして野(や)だが、卑(ひ)ではない」。これは、「言動は多少荒削りでも構わないが、人として卑しいこと、つまり人を妬んだり、裏切ったりするような、ずるいことだけは絶対にするな」という意味です。この信念が、私の人生の土台になっています。
――その信念を持って、激務の官僚時代を過ごされたのですね。当時の省庁はどんな雰囲気でしたか?
真二さん:当時は、通産省が日本の産業を引っ張っていくんだという熱気にあふれていました。例えば、かつては「護送船団方式」といって、役所が銀行などの産業全体を引っ張って守り育てるような時代です。国全体が成長していく夢があり、給料は安くても誇りがありました。
ただ、新しい政策を進めるには、予算と法律が必要です。大蔵省(現・財務省)の主計局に予算をもらいに行く時は、まさに真剣勝負。廊下で何時間も待ち、厳しい指摘に徹夜で資料を作り直す。精神的なプレッシャーで体調を崩す仲間も多くいました。
―― 国を動かす仕事の裏側には、壮絶な苦労があったのですね。

真二さん:ええ。特に北海道の原子力発電所の安全審査官をしていた時のことは忘れられません。公聴会で反対派の方々から激しい怒号を浴びせられ、テレビカメラが顔の目の前に。まるで私が悪者になったような気分でした。それでも逃げずに、何百もの想定問答を用意し、専門外の物理学も必死に勉強して、誠実に説明し続けました。
初めて原子炉を起動させた瞬間、「よし」と判を押すと、周りの技術者たちが一斉に拍手をしてくれた。「国を背負って仕事をした」というあの時の達成感と重みは、今でも私の支えです。
2. 死の淵からの生還、そして夫婦二人三脚での独立
―― 官僚として順調なキャリアの中で、40代で独立を決意されたきっかけは何だったのでしょうか。
真二さん:実はその少し前の42歳で、癌を患い、胃を全摘出しました。一度死を覚悟したんです。その経験から、「人生は一度きり。組織の看板ではなく、自分の名前で勝負したい」という思いが強くなりました。特許庁で審査官から裁判の指定代理人まで、やれることはやりきったと感じていました。
―― 大きな決断でしたが、奥様はどのように受け止められましたか?
白﨑則子さん(以下、則子さん):私は昔から、あまり深く考えないタイプで(笑)。主人が「辞める」と言った時も、「まあ、なんとかなるでしょう」と思っていました。役人時代は単身赴任などでほとんど顔を合わせられなかったので、独立すれば毎日顔が見られるかな、というくらいの感覚でした。

真二さん:それが甘かった(笑)。現実は厳しかったです。退職金は株で失敗してほぼなく、事務所の家賃も借金。従業員を雇う余裕なんてなく、妻に経理や事務を手伝ってもらうしかなかった。文字通りゼロからのスタートでした。
―― 小さなお子様との生活はどうされていたのですか。
則子さん:借りた東中野の小さな事務所が生活の場でした。娘は学校から帰ると事務所で宿題をして、夜中になると、事務所の机の上に毛布を敷いて寝かせていました。終電ギリギリまで仕事をして、寝ている娘を起こして自宅に帰るという毎日でした。
真二さん:本当に必死でした。でも不思議なことに、仕事は途切れなかった。役人時代に、たらい回しにされていたある企業の相談に最後まで誠実に向き合ったことがあり、その時の部長さんが覚えていてくれて、独立後に顧問契約を結んでくださったんです。「卑ではない生き方」を貫いてきたことが、巡り巡って助けになったのかもしれません。
3. 「申請書はラブレター」。発明に無限の可能性を見る
――官僚として「審査する側」から、弁理士として「申請する側」へと立場が変わりました。仕事への向き合い方に変化はありましたか。
真二さん:審査官の心理や視点が手に取るようにわかるのは強みですね。私は常々、「特許の申請書はラブレターだ」と言っています。ただ技術を並べるだけでなく、審査官が心を動かされ、読みたくなるような文章でなければならない。「この発明は素晴らしいんだ」という情熱を、論理という美しい衣装で包んで届ける、職人技のようなものです。
――「ラブレター」とは素敵です。多くの発明を見てこられた中で、白﨑さんが感じる「人間の可能性」とは?
真二さん:特許庁時代、「釘」の審査部門がありました。釘なんて、何百年も前からある単純なもの。もう改良の余地はないと思うでしょう?ところが、毎年何十件もの新しい特許出願が来るんです。「抜けにくい形状」「打ちやすい角度」「素材の工夫」と、アイデアが尽きることがない。
それを見て、私は確信しました。「人間の頭脳は無限だ」と。日本は資源がない国ですが、この無限の創造力さえあればやっていける。資源がないからこそ、知恵が出るんです。

私たちは、クライアントの発想を特許という形にして守る、人間の可能性そのものを守る仕事だと思っています。だから、どんなに難しい案件でも、「やる」と決めたら絶対に諦めません。
4. 「ケセラセラ」──二人で歩む、これからの人生の旅路
―― 激動の人生を歩んでこられて、今、お二人が大切にされている心構えはありますか。
真二さん:「ケセラセラ」、つまり「なるようになる」ということです。これは諦めではなく、やるべきことは全てやりきった上で、あとは天に任せるという「居直り」に近い覚悟です。心配してもキリがないことは、心配しない。そう腹を括ることで、また前に進めます。
則子さん:主人はいつも心配性で、「仕事がなくなったらどうしよう」って言うんです。でも私は「なるようになるわよ」って(笑)。独立した時も今も、主人の言うことを聞いていれば間違いないという信頼がありますから。
―― 素晴らしいパートナーシップですね。これからの夢について教えてください。
真二さん:若い頃は仕事ばかりで、家庭を顧みず、妻には苦労をかけました。これからは二人で旅行に行きたいですね。特に、船旅で世界を回るのが夢なんです。50代なんてまだまだ若造。松下幸之助さんは80代でも夢を語っていたそうですから、私もまだまだ現役で仕事をしながら、人生の楽しみも味わい尽くしたい。

則子さん:私も、これからは二人でゆっくり過ごす時間を楽しみたいですね。今まで全力で走り続けてきた分、これからは穏やかな波に揺られるのもいいかなと思っています。
真二さん:まあ、そう言いながらも、仕事の依頼が来ると断れない性分なんですけどね(笑)。でも、それもまた人生。これからは妻への「ラブレター」として、二人で過ごす時間を大切にしていきたいと思っています。
取材後記

白﨑さんご夫妻の物語は、IKIGAIが「個人の内側」だけでなく、誰かとの「関係性」の中で育まれるものだと教えてくれました。
真二さんのIKIGAIは、官僚としての「国を守る」使命から、独立後の「人々の無限のアイデアを守る」ことへと変化しました。その土台には「卑怯なことはしない」という美学と「なるようになる」という覚悟があります。
しかし、その挑戦を可能にしたのは、間違いなく則子さんという存在でした。机の上で眠る娘さんの姿、不安を口にせず夫を信じ抜く強さ。則子さんの「共にいる」という姿勢があったからこそ、真二さんは荒波に漕ぎ出すことができたのかもしれません。
成功も失敗も、病気も困難も、すべてを二人三脚で乗り越え、今「船旅」という新たな夢に向かうお二人の姿は、人生そのものの中に数多の壮大なIKIGAIが存在していることを示しているのではないでしょうか。
【企業データ】
会社名:白﨑国際特許事務所
事業内容:特許・実用新案・意匠・商標の出願代理、鑑定、訴訟対応、知的財産コンサルティング
所在地:〒160-0023 東京都新宿区西新宿7-15-1 アパライトビル6階