「儲け」より、信頼を積み重ねる経営(株式会社ジンテック)
かつて論理と効率こそが正義であると信じ、多くの企業の経営モデルを構築してきたコンサルタントがいました。しかし、ある企業の再建を託され、自ら経営の舵を握ったとき、彼は直面します。数字や理屈だけでは、人の心は動かず、組織の真の力は引き出せないという事実に。
合理性を追求するあまり、現場から「仕事が面白くなくなった」という声が漏れ聞こえたとき、彼は一つの決断を下しました。それは、経営の物差しから「儲かるのか」という問いをあえて封印すること。一見非効率に見える「礼儀」や「仁義」を組織の土台に据え直したとき、立ち現れたものはなんだったのか。管理を超えた先にある、人と人との繋がりを信じ抜く。それを貫き通した先に見える”経営”のお話です。
1. なぜ元コンサルタントが「左脳」の限界を超える経営を選んだのか?
—— 柳さんはもともと、外部のアドバイザーとしてジンテックに関わり始めたと伺いました。当時はどのような状況だったのでしょうか。
柳 秀樹さん(以下、柳さん):私はもともと経営コンサルタントとして、同時に3社ほどの会社を見ていました。ジンテックはそのうちの1社だったのです。また、ジンテックの技術については、以前から別の仕事の関わりの中で知っていましたから、どんな会社かはある程度分かっていました。
—— 外部のコンサルタントという立場から、一社の経営に深く入っていくことになった背景には、何があったのでしょうか。
柳さん:私をジンテックへ導いてくれた方がいます。彼は当時から「この会社は、経営としてやるべきことをしっかりやって、お客さんにしっかりと提案していけば、絶対に伸びると思っているんだ」と語っていました。正直に言えば、当時の私には、経営面でその見立てが本当に正しいかどうかまでは分かりませんでした。しかし、コア技術のことは分かっていた。
—— ご自身で納得しきれていない見立てを、どうして引き受けられたのでしょうか。
柳さん:それが論理から導かれたものかどうかは、当時の私には分かりませんでした。でも、分からないからこそ、そのまま受け入れればいいのではないかなと思ったんです。自分の左脳で納得できるかどうか考えたって、分からないんだから仕方がないなと。その「分からないものを引き受ける」という感覚は、今の私の経営判断の根底にも流れている気がします。
——その後、関わって1年ほどで取締役に就任されたそうですが、葛藤はありませんでしたか。
柳さん:コンサルタントとして複数社を見続けるという選択肢もありました。しかし、会社側も自分もその気になったとき、私はジンテック一社に専念しようと決めました。やるんだったら、とことんやらないと。外から助言するだけではなく、自ら手足を動かして現場に入り込む。「このまま放っておくと、この会社は駄目になってしまう。立て直して、土台をしっかりさせよう」。そんな覚悟を持って、この会社に入っていきました。

2. 「儲かるのか」を問わないマネジメントは組織をどう変える?
——中に入ってみて、当初のやり方を変えることになったきっかけは何だったのでしょうか。
柳さん:最初にジンテックにやってきたときは、私自身も「経営の形態モデルが大事ですよ」と言っていました。論理的に仕組みを整えれば、会社は良くなる。そう信じていましたし、実際、現場も仕組みの大切さは分かっていました。しかし、しばらくして、現場からある声が上がったのです。
「柳さんの言うことは正しいし、会社も良くなってきているけれど、仕事が面白くなくなった」と。
—— 現場の「面白くない」という声は、柳さんにどのように響きましたか。
柳さん:これは無視できないと思いましたね。「そうか」と受け止めて、自分でもいろいろと考えました。それまでの私は、左脳で論理的に考えることこそが良いことだと思っていました。多くの会社でも、営業が「お客さんがこういうサービスを欲しがっています」と言ってきたとき、まず投げかけるのは「それは儲かるのか」という問いですよね。しかし、私はその問いを禁じたのです。管理職に「儲かるのかと絶対に聞くな」と言ったのです。
—— なぜ、その問いを禁じる必要があったのでしょうか。
柳さん:その問いを投げた瞬間に、人の思考は止まってしまうからです。儲かるか儲からないかなんて、その時点では誰にも分からない。そうではなくて、「それってどういうものなんだろうか」と、まずはよく噛み砕いて理解してみる。営業が拾ってきた小さなフックを分析し、形にするのが管理職の役目だと定義し直したのです。
—— 左脳の論理性を、アイデアを潰すためではなく、育てるために使うということでしょうか。
柳さん:順番が大切なのです。生まれるまでは左脳のことばかり言うな。生まれたものをコントロールしていくときこそ、左脳の力を発揮すればいい。この考え方を徹底した結果、現在では4つの領域で20ものサービスが増えるまでになりました。これは特定の誰かがアイデアマンだったからではなく、誰のアイデアも拾える体制、ボトムアップで声が上がる環境を作った成果だと思っています。
——柳さんご自身は、日々どこで時間を使っていらっしゃいますか。
柳さん:私自身も営業に同行し、出張し、年間の多くの日数をそこに割いています。パレート分析を使って重要なお客さまを絞り込み、自ら足を運ぶ。突然やってきて社長になった人間が、自分たちと同じ現場に来て、一緒に動いている。その姿勢が社員に伝わることが何より大事だと思っています。もし私が逆の立場だったら、ずっと部屋に閉じこもっている社長には身構えてしまうでしょうから。20年前は、いまのような言葉でこれを語っていたわけではありませんが、理屈を超えたところに大事なものがあるという感覚は、その頃から持っていたのだと思います。

3. 「冷蔵庫を開けることも好き放題」なお客様との信頼関係つくり
——顧客との関係性において、柳さんが理想とされている姿を教えてください。
柳さん:既存案件の定期訪問やメンテナンスなどをきっかけに、まずはお客さまの中に入っていく。そこから信頼を積み重ねていって、その先、奥の部屋まで入れてもらって、冷蔵庫まで開けさせてもらえたら、もうこっちのものです。
—— 「冷蔵庫を開けられる関係」というのは、具体的にどのような状態を指すのでしょうか。
柳さん:そういう関係になれば、何か困ったときだけの「有事の付き合い」で終わらなくなります。社長の奥さんが「どうぞどうぞ、お茶でも飲んでいって。これも食べていきなよ」と、家族のように迎えてくれる。そこまで関係性を構築できるかどうかが勝負なのです。
例えば銀行員でも、そんな関係を築いていれば、「実は何ヶ月後に大きな決裁があるんだけど、手形が落ちるのが先で困っているんだ」といった、込み入った相談を一番に持ち込まれるようになりますよね。BtoBビジネスなので、冷蔵庫のお話しはちょっと具体的では無いけれど、例えば話しとして、そのような関係性になることが大切です。
—— 組織の中でも、そうした現場での気づきや会話が日常的に交わされているのですか。
柳さん:もちろんです。若い社員が拾ってくるお客さんの声は、まさに玉石混交です。時には「これは逆にお客さんにふっかけられているぞ」と教えることもありますし、逆に、若い人が拾ってきた球がそのままサービスに繋がることもある。社内では日々、そういう生きた会話が飛び交っています。
——そうした関係づくりを、会社として仕組みにしている部分はありますか。
柳さん:当社では毎年、お客さまをホテルに招いて謝恩とお客様交流の会合を開いています。美味しい料理でもてなし、心からの謝意と敬意を伝える、そして何よりも1Wayでなくお客様同士、お客様と特別ゲストの交流の場として運営しているのです。しかし、若い人の中には「これは会社が集めたいから集めている行事ですよね、自分自身には直接関係ないのでは」と、他人事のように捉える者がいます。私は先日も、彼らに力説しました。
「これは単なる行事ではない。礼儀から始まった義理であり、仁義なんだ。売上を先に置くと、自分の都合をお客さんに押し付けるようになる。売上は後からついてくるものだ。お客様との関係性、感謝と真心を体現してしっかりお伝えすることなんだ」
—— 若い世代に、その感覚をどのように伝えていらっしゃいますか。
柳さん:彼らの考え方も認めます。しかし、今私たちが向き合っている経営者の方々はZ世代ではありません。相手に合わせた礼節を尽くすのは当たり前のことです。お祝い事があれば胡蝶蘭を贈り、手土産を持って足を運ぶ。手土産は予算化しています。虚礼廃止でやらなくする会社が多いところを、当社はあえて大切にしている。会食の機会も、お客さまごとに年1回、年2回とシナリオプランを作り、そのうち1回は私が行く、部長が行くと決めています。その頂点が、年に1回の謝恩とお客様交流の会なのです。
きちんとしたホテルで開くような晴れの場に出られる。それを今年入った新入社員や、去年入った中途の人に教えてあげなければ、そういう場を味わえない後輩を育てることになってしまう。私が若い頃は、そういう場にお客さまを呼べなかったら恥ずかしい、という感覚がありました。普段からちゃんとお客さまと接している営業担当ほど、そういう場にお客さまが足を運んでくださるし、代理を出してでも来てくださる。

4. 次世代へつなぐ組織論。外部環境に左右されない強い会社の作り方
—— 社長に就任されて間もない頃、大きな試練があったと伺いました。何が起きたのでしょうか。
柳さん:2008年に社長に就任し、その翌年の2月でした。他社から特許権を巡る訴訟を起こされたのです。すぐに設計変更して、特許とはまったく違う方式にしましたが、二審で負けてしまい、そこから訴訟が終結するまでの4年ほどは苦しかったですね。
—— 4年は長いですね。どのように会社を守り、立て直されたのですか。
柳さん:訴訟の途上では特許本来の議論以外にも、様々な主張を受けました。例えば「設計変更の実態は何なのか」「対象サービスの数字面は正しいのか」など。それで裁判が長引いてしまったのですが、
数字面については、裁判所の調査ですべて「実態に相違ない」と意見表明してもらったり、それぞれの項目についてひとつひとつ、粘り強く対応をしていきました。また、そういった状況にお客さまが不安を感じられないよう、徹底して誠実であろうと決めました。しっかりとしたステートメントを出し、現在の状況を説明し続けたのです。
——数字も落ち込む中で、社員の方々や顧客との関係はどうなっていきましたか。
柳さん:赤字にはならないものの、4年連続で数字が少しずつ落ちていく中で、去っていった社員も、もちろんいます。会社が下火になれば辞める人もいる。それは悪いことじゃないんです。だけど、残って一緒に戦ってくれた人も何人もいました。

また、お客さまはこう仰いました。「うちはサービスが自分たちにどれだけ貢献してくれるか、それを聞きたいんだ」。その言葉に応えられるよう、丁寧な説明と信頼していただける関係を築くことに全力を注いだ結果、顧客はほとんど残ってくれました。
—— その苦しい時期、創業者である前代表との関係はどうだったのでしょうか。
柳さん:前代表は健康上の理由で一線を退かれていましたが、当社にとって「生みの親」でした。生みの親から、育ての親にバトンタッチされた——そんな感覚です。
—— そうなのですね。ご自身は現在、56歳を迎えられ、「ビジネスマンとしての第4コーナー」に差し掛かっていると仰いました。これからの展望をお聞かせください。
柳さん:すぐに引退したいということではありませんが、後に続く人たちのことを考える年齢になりました。会社はここまで成長してきましたが、まずは売上50億円、従業員100人弱の規模まで持っていきたいと考えています。
その時々で優秀な経営者が経営にあたることに越したことはありませんが、どんな経営者であっても、その規模になれば、多少の環境変化に対する会社のボラティリティは高くならずに済む。私が経験したような訴訟がまた来ても、ああいう思いはしなくて済みます。中小企業やベンチャーは、外部環境によって事業そのものが揺れてしまいますから、事業環境変化への感応度を低くしておきたいのです。
——未来を担う社員たちには、どのようなことを期待されていますか。
柳さん:日々、顧客の声を拾って製品に落とすやり方は大切ですが、どうしても顕在ニーズに留まってしまいます。これからは、一つのサービスあたり売上1億から2億になるような、柱となるサービスを自分たちで作っていけるかどうかが課題です。そういうことができる人を採用してきましたし、私も一緒に動くことで「これはいいな」と判断できる。そういうものが何もないまま「こういうサービスを作れ」と言うのは、私の考えとは違うのです。
—— 経営者としての手応えと、孤独と。その両方をどう抱えていらっしゃいますか。
柳さん:社内には、管理職でなくても入社二、三年経った若手と普通に話し合える関係があります。その意味では一人ではない。ただ、経営者とそれ以外は圧倒的に違います。家族のようであっても、本当の家族とはまた違う。経営者は孤独だというのが分かるところもありますし、今も本当に一人だ、というのは事実ではあります。それでも、次の世代が自分たちの手でサービスを生み出し、多少の環境変化では揺るがない会社を育てていける土壌を整えること。それが、今の私の願いです。
取材後記

「やるんだったら、とことんやらないと」。コンサルタントから一社の経営を引き受けた柳さんのその言葉が、今も耳に残っています。「分からないからこそ受け入れればいいと思った」というその独特な引き受け方は、やがて管理職への「儲かるのかと絶対に聞くな」という指示や、顧客の「冷蔵庫まで開けさせてもらえる関係」の構築へと繋がっていきました。
競合他社との四年にわたる訴訟という苦境の中で、「生みの親」である創業者のバトンを受け継ぎ、「育ての親」として筋を通し続けた柳さん。そこには論理による管理と、理屈抜きの仁義が、裁かれることなく同居しています。売上50億円、100人弱という規模を目指すのは、外部環境の変化に対する感応度を低くし、売上1億から2億のサービスを次世代が一つひとつ積み上げていける土壌を整えるため。
IKIGAI経営という言葉を、私は柳さんのこうした具体的な実践の積み重ねとして受け取りました。その先に、組織としての揺るぎない安定と、新たな挑戦の先に共存する未来が拓かれていくのかもしれません。